「心は金で買える」という言説について考えてみる。

「心は金で買える」
この命題はその真偽を問う以前に「心」とはなにか、「買う」とは一体どういうことなのかが明確でない。従って、まじめな検討に値しない、というのが一応の正解ではある。しかし、それでは話が終わってしまうので、引き蘢り特有の優しさを発揮して善解に善解を重ねつつ、この命題の真偽につき検討してみよう。
 まず、「心」とはなにか。簡単にものを考えることや五感の働き、または感情の動きなどの精神的活動すべてを含む概念と定義しよう。次に、その「心」を「買う」とは一体どういう意味か。
 「買う」と言う以上、それはなんらかの取引ルールを前提とするものであることは間違いなかろう。とすれば、当該命題の分析に民法学上の概念を使うことはあながち不当なこととは言えまい。そこで、「心」が「買う」ことの対象、すなわち物に対する排他的権利たる物権の対象となるかを検討するに、そもそも「心」が物と言えるかという問題もさることながら、*1もっと単純にそのような契約は民法90条違反つまり公序良俗に反し無効である。また、民法90条などというご大層な条文を持ち出さずとも、そもそも「心」の動きを外部から看取することは現実に困難であり、本当に当人が「心」を売ったのか確認できない。すなわち契約の履行が担保されない。実効性が無い。従って「心」を「買う」ことは無効以前に不可能でもある。
 とはいえ、「心は金で買える」という命題をもっと弱めた形で主張することは可能であろう。つまり「心」を「行動」と同視して「心は金で買える」という命題により、実際は「人は金で動かすことが出来る」ということを主張する場合である。
 では、この命題は真か、偽か。端的に言えば、真である。というか、「債権」という概念がまさにそれである。債権、つまり特定人が特定人に給付*2を請求する権利は社会一般で当たり前に行使されている権利である。従って、この意味での「心は金で買える」とは実に当たり前の主張ではある。
 次に、この主張をもっと強めて「人は金でどんなことでもさせられる」という解釈をとってみよう。この解釈が一般に主張者の真意に近いと思われる。この命題の真偽は如何。まあ、させられることもあるし、させられないこともある、という、ごく当たり前の回答になろう。常にそうかというと普通に偽であろうが。それと前出の公序良俗の範囲でというのもある。*3
以上、検討してきたが、なんとも当たり前の結論ばかりが並んだ。「心を買う」とかおおげさに言うけど、実はたいした主張じゃないんじゃない、ということが言いたかった。終わり。*4 *5

*1:言えないでしょ。普通に。

*2:請求権の目的となる義務者の行為

*3:まあ、法律というのがあれば、破る奴もいるわけですが。

*4:別に僕は清貧の思想とか言いたいわけでない。金がないのは首がないのと同じ、といいましてな。

*5:付け加えると、似たようなもので「金で買えない物は無い」という主張があろう。この真偽はどうかといえば、普通に偽である。なぜなら、どうあがいても例えば、太陽は買えない。金が人間の行動を前提とするものである以上、「金で買えない物は無い」というのは「人間に出来ないことは無い」という前提を持っているとも言えよう。なんか勇ましいね。ただ、この主張って実のところ「(俺の欲しい物で)金で買えない物は無かった」ということがほとんどなのではないだろうか。