Kさん曰く「精神的に向上心の無いものは馬鹿だ」

最近考えていること。ブログをやる理由。他人が見ることを前提に文章を書く理由とはなんだろう。
個人的にこのブログは文章の練習という目的もあって、なるべく人が面白いと思うことを書きたいと考えている。いや別に面白く書く必要なんてあるのか実はよくわからないのだけど。熊先生あたりに言わせれば、

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というところか。
ただ僕は個人の日常日記とかを見ることは無いのだ。なんでかというとズバリつまらないから。というか、赤の他人の身辺雑記が面白いという人はあまりいないだろう。
そもそも「ものを書く」ということはどういうことなのだろうという事をちょっと考えてみた。
ものを書くというのは情報を伝えるということであって、その情報というのにも一次情報と二次情報がある、というような分けかたができると思う。*1まず書き手自身が得た情報というものがある、これを一次情報と呼ぼう。これはまだ抽象化を経ていない生の事実であって、世の中のありとあらゆる事象がその範疇にある。しかし、例えば無名の個人が今日の昼になにを食べたかとかは一次情報ではあるが、こんなものに興味がある人はあんまりいないだろう。皆が知りたい一次情報というやつは新聞社なんかが毎日必死になって追いかけて報道しては飯の種にしている。
次に、一次情報を加工した情報を二次情報と呼ぼう。これはいわゆる分析というやつで一次情報として公になった事実に関して、それがどういうことなのか抽象化し、整理する。そして、そういった事実を踏まえて僕らがどうすればいいのか考えるための基礎にしたりする。
と、ここまでは書いている中身の話。「書く」という行為の方はどうなっているのだろう。
ものを書くということはだれかに何かを伝えるという事だ。ではだれかに何かを伝えない文というのはありなんだろうか。もちろん、そういう目的を持っていない文、自分だけが分かればいい文章というのもあるにはある。たとえばメモ書き、スケジュール、to doリスト、なんかはそうだろうがそういう文は公開する必要は無い。
そして、こちらが問題だが「わかる人にだけわかればいい」という考え方がある。こういう考え方は凄く楽だし、完全にテンパってしまった人に余裕を持たせる為の言葉としてはいいと思う。でも、実際にそれでいいのかというと問題がある。「わかる人にだけわかればいい」ということは、「わからない人にはわからないでいい」ということでもある。そういうスタンスが何を生み出すか。それは同じものの交錯だ。ノイズの無い交流だ。そこには「他人」は存在しない。どこまで行っても自分しかいない場所。*2そんな場所が良いところなはずが無い。そこには誰もいないのだから。他人がいないのだから自分と他人を区別する必要も無い。自分と他人を区別する必要が無いなら、自分もいなくなってしまう。ものごとというのは比較される別のものとの「差」によって認識される。「分かる」ということは何かから何かを「分ける」ことでなりたっている。従って、他人のいないところでは、比較するものが無いので「自分」が見えなくなってしまう。
丁度そこまで考えて凄まじくピンポイントな分析をみつけてしまった。ファイナンス理論におけるブラック・ショールズ式というオプション価値を分析する為の公式を援用して、インターネット上の個人サイト群の不毛さと哀しさについて語ったものなのだが、かなりおもしろい。*3読んでいて自分にもザクザク突き刺さってくるところが多く、これを紹介するというのは相当に自爆気味なのだが、この文章を無視しても僕の書くものが面白くなったりするわけでもないのでリンクしておくことにした。ちょっと長いのであとでゆっくり読んでくださいな。
と、以上のようなことを踏まえると、やはり前から考えていたのと同じ結論に至る。ものを書くとはどういうことか。それすなわち「知ること」。視野を広げること。その為の能力を磨くこと。それは「他者」への道でもある。
これでひとまずおちつける足場ができた。でも次に、じゃあどうすればいいのかという壁にぶちあたる。理論付けできても実践できなきゃしょうがない。実際、現在までにおそらく内容「のみ」に反応してくれた一見さんのコメントがたった一つということから、文章を書く人としての僕の市場価値が透けて見えてちょっと萎える。でも、その方面で食っていく気もないのでそれはいいのだけれど。
まあ、いままで同じことを続けるだけだと思う。日常的なインプットとアウトプット、フィードバックの繰り返し。書く内容も短期的には変わらないだろう。長期的にどうなるかは分からない。
そういえば僕は最近になってずいぶんとメンタル的に弱くなった。泣き言とか自分語りとか僕は嫌いなはずだった。こういう感情の発露っていいとこ同情を引き起こすだけで、世界を動かす力は持たないからだ。*4でも、このブログでは直接的にではないにせよその手の文章が結構あってかなり恥ずかしい。これはさきの話に当てはめるなら僕個人の感情という一次情報からその普遍的構造を見いだす作業になっていれば、僕としてはその存在を許容できるのかなとは思うが、やりすぎると自分でもうざいので押さえていこうと考えている。
さて、以上のようなことを書いてしまうと、これから何か書くのに拘束がかかってしまうので嫌だったのだがまあ仕方あるまい。実践できないことも多いだろう。小生の非力の故でございます。でも「言ってることとやってることが違うじゃあないか。精神的に向上心の無いものは馬鹿だ。」とか言っていぢめないでくだしあ。

*1:この文章での「一次情報」「二次情報」という言葉の使い方は昨今のブログでのジャーナリズム論議に関しての使われ方を念頭に置いている。ただしこれは投資関連では見かけるが、あまり一般的な使われ方ではないようだ。図書館情報学辺りでは何らかの文献をまず「一次情報」と呼び、「一次情報」に関するメタ・データを「二次情報」と呼ぶらしい。検索をかけるとこちらの使い方のほうが多いようだ。最近は前者の使い方が検索の上の方に来ているが。

*2:人類補完計画!!

*3:しかし、こういう文読むと、もう「圧倒的に敵わん」と思うよね。

*4:「同情するなら金をくれ!」ってあったよね。