「1984年」ジョージ・オーウェル(ハヤカワ文庫)

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)


1984年。核戦争後の世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの三つの超大国に分かれ、いつ終わるとも知れぬ抗争を続けていた。各国の内部で人々は全体主義政権による徹底した管理を受け、テレスクリーンと呼ばれる双方向メディアによって生活の一挙一動にまで至る監視社会が成立していた。
そんななか記録のねつ造・変造を司る真理省の下級官吏ウィンストン・スミスはふとしたきっかけで、禁止されていた日記を付け始めることとなる…
なーんて言うとありがちな感じですが、なかなかどうしておもしろい。オセアニアの指導的思想イングソックや、イングソックの実践としてのニュースピーク(新語法)などの練り込まれた小道具も独特の世界観の構築に一役買っている。
全体的なモチーフについて言えば、人間は世界をどこまでコントロールできるか、コントロールすべきかというお話しになるのだろうか。創発的な社会システム構築を重んじるオークショットばりの保守主義の観点から言えば、このような意識的コントロールというのは愚の骨頂ということになろうし、革新的理想的なシステム構築を矛盾無く行おうとしたら本書のイングソックのようなものにならざるを得ないのかなという感じはする。本書の中にはこんな対話が出てくる。
「私には分かりません?それはどうだっていいことなんです。しかしどうも、あなた方は失敗すると思います。何かがあなた方を敗北させるでしょう。人生というものがあなた方を打ち負かすでしょう。」
「ウィンストン、われわれはあらゆるレベルで人生を管理している。君は人間性というようなものがあって、それが我々のやり方に反発するだろうと思っている。しかし我々は人間性まで想像しているのだよ。(後略)」
そう。確かに人間性というものは変えられるのかも知れない。但し、ここで想定されているような後天的な改造よりはもっと直接的なDNAレベルでのコントロールという話になるのだろうが。しかし、それにしたって物理法則には逆らえず、自己保存・自己増殖を否定したり、現実の世界で深刻なコンフリクトを起こしたりするような「人間性」は現実によって排除されるのだ。そのような矛盾を起こさない完璧なシステム構築が可能なのか、そもそもすべきなのかについてはよくわからない。私見はなんとなくこれを否定すべきように思う。漸進改革主義に万歳二唱!
ところで、この本戦後すぐに出版されたものなので具体的な監視技術についてはやっぱりちょっと物足りない。いまだったらシロマサみたいな電脳化を強制することでより直接的なコントロール描写ができるのではないかな、と。それと党支配の根本となる極端な相対主義にしても「それがなかった」ということと「それがあったことを誰も覚えていない」ということは論理的に一致しないという反論は可能だろう。まあしても意味はないし、結局のところ認識の説得力が各人の間主観的妥当性に依存するなら、未来永劫の党支配が続くとした場合に「それでも地球は回っている」ということにどれだけ意味があるのかは謎。
実際はそのような圧倒的な権力が存在しなかった故に、地球が回っていることの正しさが人々に受け入れらたのですね。