「サンキュー・スモーキング」ジェイソン・ライト監督/アーロン・エッカート主演

注意:若干のネタバレあり
個人的に気になっていたのでわざわざ日比谷まで出向いて見に行った映画。タバコ産業の利益を代弁する敏腕ロビイスト、ニック・ネイラーの生活をコメディチックに描いた作品。
気になっていたというのは、この映画が描いているある種の人間類型が、僕が以前から考えていた人間像を良く表しているのではないかと思ったことだ。分かることは分けることであり、生の現実というものは目的に応じて様々な切り分け方が可能だろう。その切り分け方の一つとして、人間は大まかに二種類に分けることができるのではないかと僕は考えた。それは名付けるならば残虐系と純情系だ。ひどいネーミングで恐縮だがそれなりにおもしろくて便利な切り分け方だと思っている。
残虐系は一言で言って強者である。競争と勝利を好み、外部や他者に働きかけることを得意とし、現実的でポジティブ。人間の可能性には悲観的で諦観的。その代わり物事に多くを求めない。政治的には保守的で、平等よりは自由を重んじる。
純情系はいわば革命家だ。弱者に共感し、不正に対する怒りは激しい。行動派であるよりは自らの内に深く潜り考え込む傾向がある。理想主義的であり、その裏返しとして現状に対する認識がネガティブ。社会改良の情熱に燃えていることもある。政治的にはリベラルで自由より平等を重んじる。
無論この分類は言ってみればモデルの一種なので純粋な形で現実に存在することは少ない。多くの人はこの二つの類型の中間当たりで状況によって右に左に揺れているのだろう。
さて、前にも書いた通り創作の本分というものはこのようなモデルをより純粋な形で描き、人間の本性を表現することにあると僕は考えている。そしてこの「サンキュー・スモーキング」こそ残虐系の生き方というものを明確かつ劇的に描いた作品として高く評価できると思うのだ。
簡単に説明しよう。主人公ニック・ネイラーはロビイスト。ワシントンのタバコ産業の利益団体で広報部長の職に就き辣腕を発揮している。ハンサムで快活、センス良く、品があり弁舌はまさに立て板に水。ニュースや討論番組ではタバコの危険性を糾弾する論敵を丸め込みやり込めけむに巻く八面六臂の活躍。結果としてタバコ規制派からは蛇蝎のごとく嫌われる。いわばパブリック・エネミー(w。
彼は大衆の専門知識に対する無知を利用して、詭弁とマシンガントーク*1でタバコ産業を擁護する。タバコと肺がんの因果関係を攻撃し、現に存在する肺がん患者は金で取り込み、籠絡する。そうして批判の目を逸らさせた上で、「煙草を吸うかどうかは自分で判断すべきだ」ともっともらしい決め台詞を放つ。彼は道徳に囚われない。彼に取って道徳は乗り越えるべき障壁か、あるいは聴衆を丸め込むための道具である。ちなみにロビイストになった動機は「住宅ローンのため」だ。
彼はろくでなしだろうか?イエス、その通り。彼は俗物だろうか?イエス、その通り。彼は悪人だろうか?イエス、まさにその通り。しかし彼は人間的には魅力的でもあり、人心掌握に長け、自らの人生を自らの手で切り開く気概を持っている。要するに彼には力がある。彼は強者である。彼はおのれの思うがままに強く、そして悪であることで自らの存在意義を証明しているのだ。
終盤、タバコにドクロマークを付けるための委員会のシーンで宿敵フィニスター議員に「自分の息子が成人したらタバコを買ってやるか?」と問われたニックは長い沈黙の後こう答える。「彼が望めばそうする」と。ニック自身が語った通り、これは彼の本心だ。自らの人生をコントロールすること。自由であること。全ては自分が決めたことであり、道徳的ではなくともその点で彼は一貫している。ニックの最後の台詞、「マイケル・ジョーダンはバスケをする。C・マンソンは人を殺す。誰にでも才能がある。僕は喋る。」*2は象徴的である。ひたすら自らの存在を全うしようとすることで彼は善悪の彼岸にある人間の生き様を見せてくれるのだ。

*1:ちなみに作中でまさにマシンガントークそのものの映像表現があって笑った。

*2:うろ覚え