夕立に打たれるのは何年ぶりだろうか。
先日ひどい夕立に遭遇して、久しぶりにあの匂いを思い出した。僕には、なぜかたいしたことでもないのに強烈な印象を持って覚えていることというのがいくつかある。その中の一つが雨の降る前の土の匂いだ。
雨の降る前兆というのはいくつかあって、それは例えば怪しげな雲行きだったり、不穏な空気感であったりするのだろうけど、なかでも生暖かい風に乗って流れてくる土の匂いが僕は好きだ。それにはなにか人を高ぶらせるものがある。なにかがおこりそうな予感。期待感。張りつめた空気の中で徐々に変わりゆく空から、突然一滴の雨粒が降ってくる。数秒おいてそれは土砂降りの雨となり、時間が経つにつれ激しさを増す。
そういった夕立に遭遇することが昔は今よりも多かった気がする。単に子供の頃はよく外で遊んでいたということかもしれない。それはともかく夕立に打たれた時はよく町内にいくつもある自転車置き場の下で雨宿りをしていたことを覚えている。鳴り響く雷鳴とスチールの屋根に打ち付ける雨の音を聴きながら、僕はなぜか安らいだ気分で不自然に明るい空を見上げていた。
あれからずいぶん時間が経った。
あの頃のことを覚えている人はもう僕の周りにはあまりいない。誰も彼も自分の人生を生きるのに精一杯だ。この文章を書いている、ある晴れた日の午後のことも、十年後、二十年後には誰も覚えていないだろう。流れ行く時間の中で残るものは何も無い。時間というのはそもそも物事の変化のことでもあるからだ。
確かなもの、残るもの、色あせないものがなにかあるだろうか。人生というのは一瞬だけ輝いては消える星の瞬きのようなものであって、永遠なんてなくてもいいという考え方もある。まあその通りなのだろう。
少し感傷が過ぎた。
また生活に戻ることにする。