規範に関する若干の考察

道徳とか規範とか呼ばれる命題、すなわち「〜するべき」という言明をどのように根拠づけるかについては歴史的に膨大な試みがなされてきた。言うまでもなくそのなかでも最大のものは宗教であろう。宗教やその他の規範命題を求める試みが成功したというのはやはり難しい。
ところで、その初期においては科学もまた究極には規範命題を求める試みでもあった。この世という神の恩寵の顕現たる世界の仕組みの解明は科学にとっても神聖な使命であったのだ。スワンメルダムが「余はここに一匹の虱を解剖して諸君に神の摂理を証拠立てよう」と言ったとき、科学とはまさに神への道であった。しかし、結果として科学が神の延命よりはその緩慢な死に力を貸したことは皮肉なものだ。世界の意味を求めることに失敗した科学はその後規範命題の探求をその使命から排除していくことになる。論理実証主義はそうした動きのひとつの到達点であろう。
では、我々はもはや意味を求めることは出来ないのだろうか。ウェーバーはそもそも意味を求めることに懐疑を投げかける。

この徳は我々に命じる。今日新しい予言者や救世主を待ちこがれている多くの人々の全てにとって、事情はちょうどイザヤ書に記録されている幽囚時代のエドムのものみのあの美しい歌におけると同じである事を確認せよ、と。
いわく、
「人ありエドムなるセイルより我をよびていふ、ものみよ、夜はなほ長きや。ものみ答えていふ、朝はきたる、されどいまはなほ夜なり。汝もしとはんとおもはば再び来れ。」

かく告げられた民族は、その後二千年余の長きにわたって同じ事を問い続け、同じ事を待ちこがれ続けてきた。そして、この民族の恐るべき運命は我々の知るところである。この事から我々は、いたずらに待ちこがれているだけでは何事もなされないという教訓を引き出そう、そして「日々の欲求」に―人間関係の上でもまた職業の上でも―従おう。このことは、もし各人がそれぞれその人生を操っている守護霊を見いだしてそれに従うならば、容易にまた簡単に行われうるのである。*1

そうなのかも知れない。我々が考えることをやめたとき。むしろそのときこそ我々が何を為すべきかがわかる時なのかも知れない。それでもなお我々が問うことを望むのならそれも良いだろう。結局のところ我々は何をしようと自由なのだ。
とはいえ、価値の究極的根拠の問題から逃れることは出来ない。価値相対主義の強力な主張は今も有効性を保ったままだ。そこではより多くの人々が合理的に肯定し得る主張のみが暫定的な真理の地位を確保しているに過ぎない。カント的人格主義、功利主義、そして公正としての正義。
その生涯を通して倫理を求め続け、ついにそれを得られなかったラッセルの晩年の言葉は重くのしかかる。

私は<倫理についての>私自身の見解が理論的には反証され得ないが、にも拘らず信じがたいものであることを認める。私はその解決法を知らない。*2

価値はどこから生じるのだろうか。荘子の大宗師篇*3にこういう話がある。*4孔子の高弟子貢は友人の死に際して歌を歌い琴を奏でる隠者の姿に衝撃を受け、このことについて孔子に意見を聞いた。孔子は彼らが世界に意味を求めず、無為自然に遊ぶものたちなのだと答えた。これに意味の根拠を問う以下のやり取りが続く。

子貢曰 然則夫子何方之依
曰丘天之戮民也 雖然吾與汝共之

子貢曰く、然らば則ち夫子は何れの方に依るか。
*5は天の戮民なり。然りといえども吾汝とともにこれをせん。

天の戮民、つまり意味を求めるように天に刑せられた者。それは人間の本性でもある。各人の守護霊はおそらくそのことを自覚したときに現れるのだ。

*1:マックス・ウェーバー.(尾高邦雄訳). (1980). 「職業としての学問」. 岩波書店. pp. 73-74.

*2:P. A. Schilpp. (1944), Reply to Criticisms in "The Philosophy of Bertrand Russell". p. 724. 当然僕のは加藤新平. (1976). 「法哲学概論」. 有斐閣. p. 551からの孫引き(笑

*3:http://sudana.hp.infoseek.co.jp/daisou.htm

*4:この話の解釈は呉智英. (1987). 「読書家の新技術」. 朝日新聞社. p. 244.に依拠しております。なんか色々調べたけどこの一節の孔子って少し老荘的とか思わないでも無い。

*5:孔子のことね。