「自由は進化する」ダニエル・C・デネット(NTT出版)

自由は進化する*1

■概要
哲学上の自然主義の権化、ダニエル・デネットによる自由意志論。各種の自由意志否定論、肯定論を批判しつつ、進化生物学、ゲーム理論、はては様相論理学の知見にいたるまで、縦横無尽の広がりを持つ議論を基盤にした自由意志肯定論を展開。*2

■覚書
●哲学上の「自然主義」:哲学的な探求に際し自然科学における発見や理論の成果をも基礎として受け入れ、自然科学と共通の基盤を持たない哲学独自の領域を否定する立場。p27*3

決定論:「どの瞬間にも、物理的に可能な未来はたった一つしかない」とするテーゼ。この定義によれば「決定論」は「不可避性」を意味しないとされる。*4p41

●いわゆるラプラスの悪魔:「任意の瞬間における自然界を動かす力をすべて知り自然界を構成するあらゆる存在の相互位置を知っている知性体は、そのデータを分析に投じられるほどのの力量を持った知性であるなら、宇宙で最大の物体と最も軽い原子の動きを一つの式に集約してしまえるだろう。この知性体には不確実なものはない。そして過去と全く同じく未来もその眼前に開けている。」―ラブラス「確立の哲学的試論」 p44

デモクリトス宇宙:クワインの考案した宇宙の単純化モデル。三次元空間をヴォクセルと呼ばれる無限の小さな立方体で区切ってデジタル化したもの。その空間のなかをそれ以上分割不可能な、真にアトム的な「原子」が動き回る。一種の概念装置。pp45-46

デモクリトスの図書館:可能なデモクリトス宇宙すべての集合、時間と空間の中で論理的に可能な原子の組み合わせすべて。p49

ライフゲーム:一定の条件によりオンオフの切り替わる二次元ピクセルによって表現される人工生命のシミュレーション。セル・オートマトンの一種。イギリスの数学者ジョン・ホートン・コンウェイが1960年代に考案。ピクセル配置によっては万能チューリングマシンさえ存在できることが数学的に証明されている!PP55-70

●シカゴ科学技術館には小さな鉄の玉が金床の上に落とされて、跳ね上がった後、回転する輪っかをくぐり抜ける展示があるらしい。p153*5

●体細胞どうしの協力関係が進化するメカニズムとロールズの『正義論』の類似性を指摘するブライアン・スキルムスの議論を紹介。pp214-215

●細胞間の協力の進化を概観して、「試行錯誤」というものが実際に役に立ってきたことを論証。p218

●ヒトの脳神経細胞の連結部の構成は、まず遺伝子によってニューロンの個体数を実際に利用する数の何倍にも増やした後、ランダムに相互接続する。その後接続部の淘汰が行われる。p222

●「人間の自然な性向は、自分自身の遺伝子を次世代で増殖させるという、それ自体ではどうにも評価しようのないもので形成されてきた。それでも、御先祖が我々を形成する遺伝子を伝達する役に立った協力は、われわれとしても求める価値のあるものだ―それももっといい理由のために。現在知られているような配慮や感情はダーウィン的な力によって形成されたものだし、その一部はおおむね道徳的なものだ」―アラン・ギバード「Wise Choices, Apt Feelings: A Theory of Normative Judgment, p327」 p280

●人間のコミュニケーション能力の共進化をコンピュータのインターフェースの開発プロセスに例えて説明。p347

●人間の思想を生み出す営みをミーム工学と捉えた上で、プラトン『国家』やアリストテレス政治学』をその初期の産物と規定(笑。p369

●宇宙的な視点から見れば、あらゆる生き物は何十億世代に渡る生存闘争を勝ち抜いた勝者の血筋に生まれていることを指摘。p379

●「責任」の後退を食い止める方策。責任と権利を結合すること。運転免許の取得年齢が三十歳に引き上げられないのと同じこと。p405

■雑感
結論として自由意志というのは進化によって得られた回避能力の一種であるということかな。決まっているか、決まっていないか、というのはそもそも問題の建て方が悪いということらしい。
そもそも僕らが「自由に選択できる」という場合の「自由」ってどういう意味なのだろうか。全くの自由な選択を行おうとしても「自分はそれをしたい」ということからだけは自由になれない。完全に純粋な自由と言うのは要するに無秩序ということではないのか。混沌と言うことではないのか。それは考えにくい。
決定論的世界のなかで進化によってデザインされた「人間」という主体の選択は必ずなんらかの秩序の上に成り立っている。「なんとなく」程度を含め人は何の理由も無く意思決定を行ったりしない。*6そうとすれば純粋に理念的で完全な自由というものはやはり存在し得ないし、そんなことを考えるのは不毛なこととも言える。
たとえば政治思想史において消極的自由と積極的自由という二つの概念がある。これらはそもそもいわゆる夜警国家から福祉国家への移行に際し国家が尊重すべき国民の自由に関する議論で出てきた概念だ。*7前者はようするに国家に放っておいてもらう自由。干渉されない自由。そして後者は国家に対し要求できる自由。生存権の保証とかだね。たとえ国家に放っておいてもらう自由があったとしても、飢え死にしてしまってはその人にとって自由は何か意味があるのだろうか。この二つの自由の区分けはこのような問題意識から生まれた。つまり自由と言うものはそれを持つ主体の生きる「能力」に依存するのではないかという議論だ。ここから考えれば自由意志が能力であると言うのも分かりやすいのではないだろうか。「遮るものが何も無い」ということだけでは「自由」ではないのだ。
さて本書のメインテーマ、決定論は自由をなくすかという問いは、もっと言えばできるかできないかが決定済みのことなら努力するのは無駄かという問いに帰着すると思う。*8しかし決まっていると言うのは厳密にいえば「結果的にそうなる」ということ*9であって、出来るか出来ないかがあらかじめ決まっているわけではない。要するに未来が決定されているわけではなくて一定の法則性に従って世界が動くのだから結果的にそうなるだけ、と言えるかもしれない。*10
ということはやはり完全な自由というのは存在せず、世界は決定論的に出来ているけど「自由意志」は存在するということか。要するにこれって「自由意志」の定義を変更しただけなんじゃないの?という疑問はあり得る。*11加えて決定論が真実であるとすれば努力するか否かまで決定されている。そして、努力することが無駄だと思って努力しなくなることすら決定されている、という「言い方」もできるかもしれない。
ではどうするかという話で言えば、実は僕は過去記事で自分なりの対処法を考えていたので驚いた。(参照)これは心構えの話で要するに未来は分からんから努力しろということに過ぎない。だけど一般に僕らが知るべきなのは事実そのものとともに、事実への対処方法であって、そうとすればこの考え方はそれなりに有用なのではないかと今でも思ってる。*12
恐らく未来は変えられる。決まっていた未来を変えることすら決まっているなどと言ってもあまり意味は無い。「決まっている」と表現することに意味は無いのだ。僕らに出来ることは信じて行動するだけだ。でも、そうしてきた生命は生き残ったし、その結果として「自由」が生まれたのだろう。

*1:なんか知らんがはまぞうが文字化けするので画像のみ。。。

*2:例によって訳者解説の出来が非常に良いので僕ごときがうだうだ書く気がしない(笑。

*3:このタームは従来哲学において扱われてきたテーマを思弁の神秘から解放する立場を示すものとして今後重要な扱いを受けるべきだと思う。要注目。

*4:決定論が真実であるとしても、それは我々の性質が固定されていることを意味するわけではないとの指摘。p137

*5:少し検索してみたけど映像などは見つからなかった。残念。

*6:意思決定機能に何らかの障害を負っている場合を除く。

*7:うろ覚えだけど、このテーマを最初に大規模に扱ったのがアイザイア・バーリンだと思う。

*8:というかこれがみんなの知りたいところかと。

*9:決定論のことね。

*10:自由意志が能力だと言うのもそこから出てくるのだと思う。つまり、未来が決まっているわけではないからこそ意思決定に際し自由な選択が必要となる、みたいな。恐らく世界には独自に存在しつつも、相互に絡み合う様々な法則性があって、その中のいくつかが進化によって自由意志を生み出したのだと思う。

*11:とはいえ、よく考えていくと一般に「自由意志」と呼ばれるものってのがどういう概念なのかあやふやになってくる。完全な自由というものを想像すればするほど、それは空漠とした抽象的な概念に思えてくる。

*12:しかし「自分「自由意志」なんてないのね」なんて書いてるな。でも、これは現代神経科学から導きだせる結論としてはごく自然なもののようだから、当時としてはよく理解していたということかな(笑。