「科学哲学の冒険」戸田山和久(NHKBOOKS)

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科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)

科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)


最近調子に乗って科学科学書きすぎたのでちょっと反省して読み始めたもの。科学哲学の入門書。*2
本書で扱われる科学哲学という哲学の一分野をご存知だろうか。人間が世界について知ろうとする試みを科学とするならば、科学哲学はその試み自体を分析する学問であると言える。それは近代への扉を開き二十世紀に至り技術の一大伽藍を作り上げた「科学」という人間の営為をまるごと理解しようとする壮大な学問領域なのだ。
科学哲学の問いは科学とは何かというところから始まる。そもそも科学的とはいったいどういうことを言うのだろうか。例えば先日投下したエントリーで紹介した本のなかでサイモンは特に自然科学についてこのように語っている。

自然科学の中心課題は、不思議なことをごくあたりまえのことにすることである。すなわち、正しく観察すれば、複雑性も単純性を覆う仮面にすぎないということを明らかにすること、混沌とみえる状態の中に隠されたパターンを見いだすことが自然科学の主な任務である。*3

これが何をいっているかと言えば要するに自然科学とは世界の秩序を見いだすこと、すなわち、ある事象の裏に隠された仕組みの解明にその任務があるということだ。これは特に自然科学に限ったことではないと思うので科学一般に敷衍してしまおう。
では、科学はどうやってそのような秩序を見いだすのか。科学では主に二つの推論方法が使われる。それが演繹と帰納だ。前者は例えば、人は死ぬ。ソクラテスは人である。ゆえにソクラテスは死ぬ、というやつ。この推論は前提が正しければ出てくる結論も必ず正しい。演繹のこのような性質を「真理保存性(truth-conservatieness)」と言う。しかし、これは「正しい」ことを言うのには強いが、「新しいこと」を言うことが出来ない。なぜなら演繹によって出てくる結論は既に前提に先取りされているからだ。そこで科学は「新しい」ことを言うために帰納を使う。帰納とはa1はPである。a2はPである…よってAならばPである、というやつで、これにより個々の事情から「新しい」法則を見いだすことが出来る。このような帰納の「新しい」ことを発見する性質が科学の発展に重要な役割を果たしたのだ。また、帰納は人間が日常的に使う思考パターンでもある。というか、帰納なしに日々の生活を送るのは不可能だといっても良い。*4「いままでそうだった」ということは僕らが「これからもそうである」と考えることの大きな根拠となっている。
しかし、帰納という推論方法はその合理性が疑問視されている。例えば消しゴムを持ち上げてから手を離すとしよう。馬鹿馬鹿しく聞こえるかもしれないが100万回同じことをして100万回消しゴムが落ちたとしても100万と一回目にも落ちるという保証はどこにもない。なぜなら「いままでそうであった」ことから「これからもそうである」ことを論理的に導くことはできないからだ。*5ヒュームはこの「帰納」という推論方法を人間の「心の癖」にすぎないと論じた。
では、このようなあやふやともいえる推論に乗っ取って発展してきた科学が役に立つのはなぜだろうか?科学が実在の秩序を正確に表現するものだから?科学理論と実在についての議論は科学哲学における最重要トピックといっても良いだろう。
しかし、この問題を考える前にまず整理しておかなければならないことがある。それは「科学とは独立して実在の世界が存在するかどうか」ということと「科学が世界について知ることが出来るかどうか」は別の問題であるということだ。前者を肯定することを「独立性テーゼ」といい後者を肯定することを「知識テーゼ」と言う。
この二つのテーゼ両方を認める立場が「科学的実在論(scientific realism)」であり、本書は科学哲学の入門書であると同時に科学的実在論を擁護する試みともなっている。
しかし、この科学的実在論とはいかにも当たり前のことを言っているように見える。それをなぜわざわざ擁護しなくてはならないのかと言えば、単純に科学哲学においてはこの立場はそれほど有力とは言えないからだ。
科学哲学において実在に懐疑的な立場として二つの有力な考え方がある。それが「社会構成主義」と「反実在論」だ。両者は似通った名前であり混同されやすいが*6重要な点で差異がある。さきの二つのテーゼについて「独立性テーゼ」を否定するのが社会構成主義で、「知識テーゼ」を否定するのが反実在論だ。*7
前者の社会構成主義というのは自然の区切り方や規則性、秩序なんかを社会的に構成されたものにすぎないとする立場で、*8この立場を取る人たちは自然法則を科学者集団による社会的取り決めだとまで言う。しかし、これには科学的事実の発見に科学者集団の社会プロセスが必要だということと科学的事実が社会的構成物だということを混同しているとの批判がなされている。
これに対して後者の「反実在論」のほうは名前の過激さの割には結構まとも。反実在論は「知識テーゼ」を否定すると言っても、あらゆる秩序に関する知識の成立を否定する訳ではなく「観察可能」ものに関しては法則の成立を肯定する。彼らが否定するのは直接観察できないものについての法則だ。
この両者の批判から科学的実在論を擁護するのはなかなかに難しい。科学が実在を正確に表しているかどうかは結局科学によって確かめるしか無い。とすれば科学が正当化されるものなのかどうかはメタレベルで確かめることが出来ないということになる。そういうわけで、科学哲学においては「独立性テーゼ」か「知識テーゼ」のいずれかをあきらめる立場が有力化してしまうに至る。
では、なぜこのように純論理的には正当化しにくい実在論が擁護されるべきなのか。まず当たり前のことだが僕らは実際にこの世界にある「モノ」に「触れる」ことが出来る。風に乗る春のにおいを嗅ぎ付け、夏の夕暮れのヒグラシの声に耳を傾け、秋の寒風に身を震わせる。冬には…うん、鍋に舌鼓を打つよね。加えて言えば科学理論の発展があったからこそこのブログがあるし、今またあなたもこの文章を読んでいる。これこそが科学に実在に近づいている証ではないのか。社会構成主義反実在論はこのような日常的な感覚や素朴な直観に反するものだ。
そして個人的には重要な理由。
科学的実在論は僕らの感覚器官が受けた刺激の外に世界があることを信じる。そして、そこには一つの希望がある。人間は世界についてなにがしかのことを理解できるという希望だ。いったいこの世界について理解することなど出来ないという絶望に人間が耐えられるものだろうか。そこに理解できるはずだという希望があったからこそ人は世界について探求し、仮説を立て、確証し、生み出される知を蓄積していったのだ。そこに理解できるはずだと言う希望があるからこそ人は人の間で生きていけるのだ。恐らくは。
と、それでは科学的実在論はいかにして擁護されるのか。まあそれは本書を読んでご確認ください。成功してると思うかって?うーん。帰納の有効性を帰納によって証明することに関しての「規則の循環」という話は面白かった。合理性ってどういうことなんだろね。加えて本書ではまた帰納という思考方法を使うヒトが実際にこの世界に適応してきたということを指摘している。まずはじめに「世界」があって、環境によるフィードバックを経て世界を知ることのできる遺伝子が生き残ったからこそ僕らは今ここにいるのだ。これはなかなかに有力な傍証だと思う。*9

*1:小谷野敦もそうだけどなんで太っちょヒゲのインテリはお笑い系なのか。本書の著者は名古屋大学教授で専攻は科学哲学。でも、論文入門本とか論理学の独習用教科書とかも書いてる。この教科書は欲しいんだけど、買ってもやる時間がないような。うぅむ。やっぱりタイムマネジメントをどうにかしないとこの先生きていけないな、などと。それにしても最近のNHKBOOKSは自然科学関連については神がかっていよる。

*2:しかし入門書ばかり読んでるね。いいんだよ。時間は有限なんだから手っ取り早く知りたいのよ。それにいきなりゴリゴリの専門向け教科書とか論文読んだって普通は意味わかんないんだから、まずは確かなものを積み上げませう。そう考えると入門書選びって大事だ。簡単にまとめると良入門書→定番教科書何冊か→論文直読みって感じかね。しかし、この良入門書ってのがなかなか無くてですね。普通はある程度勉強進んでからもっと良い本があるとわかる(笑

*3:H・A・サイモン. (1999),『システムの科学』. パーソナルメディア. p. 3.

*4:僕らはなぜ明日から地平が肥大化して通勤通学するのに1週間かかるようになると考えないのだろうか?

*5:この帰納の合理性に対する懐疑、本書で言う「ヒュームの呪い」を解くために考えだされたのが、カール・ポパーによるかの有名な「反証可能性」なのです。この本、そこらへんの説明すごいわかりやすい。

*6:というか、僕もこの本よむまでこの区別知らなかった。と思ったらソーシャル・テクスト事件関連で「独立性テーゼ」と「知識テーゼ」の区別の重要性は指摘されてるね。ここらへんに注目。

*7:この名称ってなんか逆だと思うけどね。

*8:まあ、ぶっとんでるよね。そういえばラトゥールとかソーシャル・テクスト事件関連で見かけた名前がチラホラと。

*9:そういえばピンカーも似たようなこと言っていたような。