「憲法と平和を問いなおす」長谷部恭男(ちくま新書)

憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)

憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)


世界平和と言えば憲法九条。憲法改正に関する動きが慌ただしくなってきた昨今、「そもそも憲法ってなに?」というところから考えたい腰の据わった人のための憲法入門が本書となります。
数ある憲法本のなかでも「神々の闘争」とも言うべきイデオロギー的観点を排し、合理主義と手続き的正義に基づく本書の説明はかなり好きなタイプ。右とか左とか言う前に押さえておくべき基本的知識を中心に書かれていて好感が持てます。
さて、憲法とは何かを説明する為にはまずその前提となる国家とは何かを考えざるを得ません。端的に言えば「国家」という観念的共同体とは我々が寄り集まって「なにかよいこと」をするためにあると言えるでしょう。そこで問題となるのが一体「よいこと」とはなんだろうかということですね。というか、誰か「よいこと」とは何かを知っている人がいるんでございましょうか。昔、それを確かめる為に当時評判の知識人に嫌がらせスレスレの議論吹っかけて回って死刑にされた爺様がいましたね。まあ、その手のお話を持ち出すまでもなく身の回りを見れば人間の価値観は多様であるということはすぐに分かります。しかも究極的な価値観の対立は対話によっても容易に解消できるものではございません。
そのような対立する価値観の一方に国家が肩入れをすればどうなるか。当然集団的意思決定に納得のいかない人間が出てきてしまいますね。さらに国家と言う我々の集合的価値の実践手段は大きな力を持ちますから、納得できない程度ならともかく、彼の生存やもっとも大事にする価値観すら脅かされることも考えられます。そういった場合どうするんでございましょうか。民主的政治過程において修正できるのならそれが一番ですが、多数決を政治的意思決定の手段とするかぎり民主制による是正は限界がありますわな。最悪の場合、彼は集団的意思決定に抗して、多数派に対する闘争を開始するでしょう。民主的な政治過程そのものが崩壊してしまうわけです。
憲法はそのような事態を避けるために生まれました。
さて、上記のような事態を避けるため憲法はどのような方策を備えているんでしょうか。そこで出てくるのが「人権」というフィクションでございます。「人権」というフィクションを用いてあらかじめ集団的意思決定を枠にはめるんでございます。どういうことか。例えば、このような目的を持つ「人権」の代表的なものとして「信教の自由」が挙げられられるでしょう。憲法二十条には「信教の自由は何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」と定められています。国家の政策として個人の価値観には手出ししてはしませんよ。宗教団体が政治的意思決定に入り込んではいけませんよ、ということでございます。ここには国家による個人の究極的価値観という私的領域への介入を防ぎ、国家と宗教との結びつきを防止することで政治的意思決定という公的領域から「神々の闘争」を排除する思惑があります。
こんな七面倒くさい手順を踏む必要があるのか。そもそも国家なんて無くていい。そういう立場もございます。一般にアナーキズムという立場がそれですね。しかし、国家が無くなったとしても人間は残ります。人間同士が同じ領域で生きていく以上どうしても利害の対立が発生し何かしらの調整が行われなくてはまずいですね。「囚人のジレンマ」と呼ばれる合理的な個人間では解決の不可能な問題もあります。市場の価格メカニズムでは提供の困難な「公共財」と呼ばれる国防・警察・消防サービス等の提供も国家の重要な任務です。民事裁判による契約実現の担保なんてのもありますな。
国家はやはり必要があって存在しております。しかし必要ではあるが権力の集中には危険がつきまとう。そこで国家の権力行使には枠が必要なんでございます。その枠こそが憲法です。憲法とは世界のなかで価値観や利害の異なる他者と関わりながら生きるしかない人間の生きる知恵だということが出来るかもしれません。
と、このように本書は各種社会科学の知見を駆使して説明される新しい憲法学のエッセンスとなっております。とかく浮世離れした観念論と見られがちな憲法学ですが、こういった議論もございます。著者は芦部御大亡き後の憲法学界新世代の重鎮。といっても憲法学プロパーという感じではなく、英米系法哲みたいな仕事が目立つのね。ああ、でも新世社から憲法の教科書出してたな。
とまれ、ここ2、3年のちくま新書って凄いんですけど。特に社会科学方面なんて岩波新書より充実してるのでは?とりあえず、何か専門領域に関する勉強がしたい方はまずその領域に関する一線級の学者が啓蒙用に書いた本を読むのが手っ取り早いですよ。