ゼンデギ グレッグ・イーガン

 

ゼンデギ (ハヤカワ文庫SF)

ゼンデギ (ハヤカワ文庫SF)

 

 

 いつの間にかイーガンの新作が出ていたらしい。今回のネタもイーガンの十八番である人格のデータ化、なんだけど、従来作ではストーリーの前提であったそれの挫折というのが今回のテーマです。技術革新が浮き彫りにする人間性とその拡張というイーガンがずっと描いてきたものではあるんですけど、これはその失敗の話なので何か心境の変化でもあったんでしょうか。しかも序盤はイランの世俗革命みたいな話になっていて、んー、なんというか欧米リベラル白人の幻想が感じられてやや鼻白む感じ。原著の刊行はアラブの春直前のようなのでそれなりに時代を先取りはしていて、しかも雨傘革命で話題になったファイアチャットみたいな技術も出てきたりしてさすがイーガンというところもあります。でもなんというかセンスオブワンダーというと古いけど、ディアスポラみたいな圧倒的なワクワク感も、順列都市みたいなセンチメンタルもあんまりなくてどうなんでしょ、これ。自分が親の気持ちというのが実感できないだけかも知れませんが。死にゆく父が息子に何を残せるかというテーマ自体は面白いんですけどね。

リップヴァンウィンクルの花嫁 岩井俊二

rvw-bride.com

 

 かなり久しぶりの岩井俊二の新作。花とアリス見た時は岩井俊二もだいぶ丸くなったなーと思ったりしたけど、今回も多少ハードな展開はありつつもわりとお茶の間に流せそうな感じなのでリリィシュシュのすべてが特殊だったのかも。プロットとか道具立てとかは岩井俊二そのものなので往年のファンは楽しめるんじゃないでしょうか。客入りもなかなか良いようです。

 

 個人的には主演の黒木華の演技がなかなか凄かった。コミュニケーション不全のいじめられっ子演じたら日本一では。特に旦那の実家で義母に問い詰められてからのシーンが出色の出来栄え。全般にメンタル弱い子が追い詰められてパニック状態になる演技が上手すぎて見ててイライラしてくるぐらいです。あとCoccoは相変わらずCoccoだねえという。

 

 ただ個人的にはいつもの岩井俊二過ぎて多少物足りなかったところもあり、ちょっと綺麗にまとまりすぎじゃないでしょうか。上映時間は3時間もありますが。

帰ってきたヒトラー ティムール・ヴェルメシュ

 

帰ってきたヒトラー 上 (河出文庫 ウ 7-1)

帰ってきたヒトラー 上 (河出文庫 ウ 7-1)

 
帰ってきたヒトラー 下 (河出文庫)

帰ってきたヒトラー 下 (河出文庫)

 

 

 これまたヒトラーもの。2011年の現代ドイツになぜか復活したヒトラーがコメディアンとして大ヒットする様を描く風刺小説。ドイツ本国では200万部を超えるベストセラーとなったという。

 

 映画「ヒトラー最後の12日間」以来、教科書的な絶対悪としてのヒトラーではなく、ある種のリアリティある存在としてのヒトラーが描かれる作品というのがぼちぼち出てくるようになったけれど、この小説もそのひとつ。本作は独白調でたどるヒトラーの思索のレプリカとでもいうか、明快なロジックと例え話で構築されたストーリーとしてのプロパガンダがなぜ人を惹きつけるのかを小説で表現するという、創作の醍醐味を味わえる作品となっている。

 

 交渉と説得のためのひとつの方法論として、人々の不満や疑問をトータルで説明する世界観を構築するというのがあると思っているのだけど、本書のヒトラーの一人称視点が語るのはまさにそれである。それは厳密な検証に耐える必要はないが、まったくの嘘ではいけない。重要なのは人々の経験と感情に沿うものであることであり、人間の本性と言ってもいい、人が持つ様々なバイアスに合致する必要がある。そして何より重要なことはそれを語る本人がそれを信仰していることである。交渉、政治、影響力を与え合う人の営みは信仰の戦いであり、各人が信仰する神々の戦いでもある。政治的正しさのような人間の思想に正解があるかのごときアプローチは、人の営みとしての政治においては時にもろさを露呈する。特にヒトラーのような相手においては。なぜなら、彼は歴史上においても稀に見る神々の闘争における勝者なのだから。本書はある種の自動機械としての人間、すなわち我々が、もう一度ヒトラーに出会った時何が起きるかを描いた、安全だが不気味なシミュレーションなのだ。

 

gaga.ne.jp

 

 なお映画化もするようです。

hなhとA子の呪い 中野でいち

 

hなhとA子の呪い(1)【特典ペーパー付き】 (RYU COMICS)

hなhとA子の呪い(1)【特典ペーパー付き】 (RYU COMICS)

 

 

 たまたまネットで見かけた書評で気になったので買ってみた一冊。

 

honz.jp

 

 あんまり付け加えることもないんだけど、こういう性にまつわる苦悩を描いた作品としては珠玉の出来栄え。ネットでたまに見かけるようなある種の性欲忌避志向の御仁には突き刺さるかもしれない。それこそ十代の頃のようなごく若い時分の男ならば性欲と折り合いのつけ方というのは一大事なのであるが、年齢とともに多くはパートナーを見つけることで性欲とのそれなりの付き合い方というのは多かれ少なかれ誰しも身につけていくものではないかと思う。逆にいえばそれがなかなか出来なかった人というのが性の非対称性がどうのとか述べたてて性欲の否定をロジカルに突き詰めるという無駄な努力に人生の貴重な時間を浪費する羽目になるわけで、これをいわゆる"こじらせる"と巷で言うわけですが、あなたのその苦悩は言葉で消し去れるような性質のものではありませんよ、とはいうものの、そう誰かが声をかけたら納得するという話でもなかったりする。端的に言うとこれって性淘汰の過程なのよね。生存の苦悩というのは人生のあらゆる場面に顔を出します。

 

 ちなみになぜ性欲があるのかとか性欲の原罪とかいう話は経験的な基礎を突き詰めると非常に面白いので、ご興味の向きはピンカー「人間の本性を考える」とか、ソーンヒル、パーマー「人はなぜレイプするのか」とかを是非ご一読を。

 

  特に「人間の本性を考える」の以下の一節は感動的。前もどこかで引用したかもしれないけど。

 

 ドナルド・サイモンズは、遺伝的な葛藤があるのは、そもそも私たちがほかの人びとに対する感情をもっているという事実のせいだと論じている。意識は、予測のつかない稀な必要物をどのようにして獲得するかを考えだすために必要な神経計算のあらわれである。私たちが空腹を感じ、食べることを楽しみ、たくさんのすばらしい味を感じる味覚をもっているのは、進化の歴史の大部分の期間、食べ物を獲得するのが大変だったからである。私たちは通常、酸素に対しては、生存に不可欠であるにもかかわらず、熱望や喜びや魅力を感じないが、それは得るのがむずかしくなかったからだ。酸素ならただ呼吸をするだけですむ。

 

 肉親や配偶者や友人をめぐる対立にも同じことが言えるのではないだろうか。夫婦は、もしたがいに忠実であることが確実で、自分の肉親よりもたがいを大事にし、同時に死ぬのであれば、二人の遺伝子上の利害はまったく同じで、二人のあいだにできた子どもにあるという話を先にした。あらゆる夫婦が一組ずつそれぞれ島に置き去りにされてそこで一生をすごし、子どもは成熟すると離れていって帰ってこないという種があったとする。この場合、遺伝子上の利害は同一であるから、このうえなく幸せなセクシュアルでロマンティックで友愛的な愛情が進化によってあたえられると思うかもしれない。

 

 しかしそんなことにはならないだろう、とサイモンズは論じる。この夫婦のあいだに進化する関係は、個体の細胞どうしの関係と似たものになるだろう。個体の細胞どうしも遺伝子上の利害は同一である。心臓の細胞と肺の細胞は完璧な調和を保っていくために恋に落ちる必要はない。同様に、その生物種の夫婦も、繁殖のためだけにセックスをするだろうし(なぜエネルギーを浪費する必要があるのだろうか?)そのセックスはホルモンの分泌や配偶子[卵子精子]の形成といった、ほかの生殖生理以上の喜びはもたらさないだろう。

 

 ”そこには恋というものはないだろう。ほかに選べる配偶者がいないのだから、恋をするのは大きな浪費になるからだ。あなたは配偶相手を文字どおり自分自身のように愛するだろうが、そこがポイントである。あなたは、比喩的表現は別として、あなた自身を愛しているのではない。あなたはあなた自身なのだ。二人のあなたは、進化に関するかぎり一体であるから、二人の関係は心をもたない生理によって支配されるだろう。…配偶者がけがをするのを見ると痛みを感じるかもしれないが、私たちが配偶者に対して感じる感情、うまくいけば二人の関係をすばらしいものにする(そして悪くいけばひどい関係にする)いっさいの感情は、けっして進化しないだろう。たとえその種が、そのような生活様式を取りはじめた時点で、そうした感情をもっていたとしても、洞窟に住む魚の目が淘汰されるように淘汰されるにちがいない。コストばかりかかって益がないからである。”

 

 家族や友人に対する感情にもおなじことが言える。心にいだく感情の豊かさや強さは、人生におけるそれらの結びつきが貴重でこわれやすいという証拠である。つまり、苦しみの可能性がなければ、私たちは調和的な至福を手にするどころか、それをまったく意識しなくなってしまうのである。

 

スティーブン・ピンカー「人間の本性を考える 中巻」P245

 

 

人間の本性を考える  ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

 
人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (下) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (下) (NHKブックス)

 
人間の本性を考える  ~心は「空白の石版」か (中) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (中) (NHKブックス)

 

 

 

人はなぜレイプするのか―進化生物学が解き明かす

人はなぜレイプするのか―進化生物学が解き明かす

  • 作者: ランディ・ソーンヒル,クレイグ・パーマー,望月弘子
  • 出版社/メーカー: 青灯社
  • 発売日: 2006/07
  • メディア: 単行本
  • 購入: 2人 クリック: 152回
  • この商品を含むブログ (24件) を見る
 

 

最近読んだもの 20160504

 

昭和陸軍の軌跡 - 永田鉄山の構想とその分岐 (中公新書)

昭和陸軍の軌跡 - 永田鉄山の構想とその分岐 (中公新書)

 

 

 昭和陸軍の政策グループであった一夕会とその領袖、永田鉄山の思想と人脈によって昭和陸軍の政策構想とその帰結を読み解く一冊。満州事変から日中戦争、やがては第二次大戦に至る過程を昭和陸軍の中枢の動きから追っていく良作。このあたりの事情はある程度知っていたつもりだったのだけど、改めて当時の事情を追っていくと第一次大戦帝国主義の時代背景を前提にして、言ってみれば軍事官僚の集団であった昭和陸軍中枢が、派閥抗争を繰り返しながら当事者ですら懐疑的であった対米開戦に突き進んでいく過程が半ば不可避の道として見えてくる。終わりなき戦争の時代に自存自衛を維持するため、広大なアジアの資源をめぐり列強と対立し、ヨーロッパ制覇を目指すナチスドイツと対抗するソ連、イギリス、対独戦とヨーロッパの足がかりとしてのイギリス防衛を視野に入れたアメリカの思惑が複雑に絡み合う中で、最終的に対米交渉が行き詰まり、勝利条件すらあやふやな対米戦に突き進む過程の一体どこでどこまで引き返せばあの結末に至らずに済んだのか、本書を読んでも明確な答えは出ない。しかし戦前政治の主要プレーヤーであった昭和陸軍の内幕を知る重要な一冊。

 

ナチスの戦争1918-1949 - 民族と人種の戦い (中公新書)

ナチスの戦争1918-1949 - 民族と人種の戦い (中公新書)

 

 

 今年になって、今更やる夫ヒトラースレを読んでみて結構面白かったのだけど、そんな時たまたま丸善行った時に見つけたもの。人種戦争という側面からナチスの戦争を捉え、敗色濃厚になってからもなおユダヤ人の絶滅に没頭するナチスの行動原理をよく描き出している一冊。ちと反ナチが前のめりになっている感がないでもないが、よくまとまっている。

LOVE 3D ギャスパー・ノエ

love-3d-love.com

 サウルの息子見に行ったら、ちょうど同じ映画館でギャスパー・ノエの新作がやっていることが判明。全然チェックしてなかったので衝撃。翌週見に行ってみました。今調べたらエンター・ザ・ヴォイドが2009年なので、6年ぶりの新作なのね。

 

 本当は3D版が見たかったのだけど2Dしかやっていなかったので仕方なく2D。始まっていきなり濃厚なセックスシーン(それも結構長い。)から始まり、2時間20分ぐらいの上映時間中、多分半分くらいがセックスシーンです。それも映画にありがちな芸術的抽象的なベッドシーンじゃなくて、完全にAV的なそれです*1。これ見た後だと初代ターミネーターのベッドシーンがわりと健全に見えます。正直3Dで見たかった。

 

 内容的には3P願望を持つブルネットのグラマー彼女、エレクトラと付き合っている映画監督志望のボンクラ、マーフィーが金髪スレンダーパリジャンヌのお隣さん、オミと魔が差して浮気して*2妊娠させてしまい、エレクトラと別れることになったけど未練タラタラというギャスパー・ノエにしてはややあっさりめの映画です。何を言ってるかわからねーと思うが、ギャスパー・ノエにしては普通なんだよ。

 

 プロットの普通さはさておき、(あっちの相性が良かった)昔の女との思い出の清算という意味では、これ、(500)日のサマーのギャスパー・ノエバージョンと言えるかもしれない。このテーマって意外に多くの映画で使われてると思うが、頭抱えてバスルームで泣いてるマーフィー見てるとやっぱり「女々しい」って男のためにある言葉だと思う。マーフィーはオミを妊娠させる前にも、パーティーで会った女とエレクトラと一緒にいるにもかかわらず、わりと簡単にその場で浮気したり、そのくせエレクトラが浮気すると激怒して、浮気相手をコニャックの瓶で殴りつけて警察のお世話になったりするようなクズ人間*3だけど、ここまでひどくなくとも男と女がくっついてすることといえばセックスの他にはこんなくだらない諍いじゃないのかなーという気はする。若かった自分を思い出すという意味では正しく青春映画的な一作。しかしやっぱり3Dで見たかった。

 

*1:射精シーンあります。

*2:でもその前にエレクトラ交えて3Pしてたりする。意味がわからない。

*3:しかもその時警官に教えてもらったハプニングバーに自分がエレクトラを連れて行ったくせに、なんで他の男を抜いてやったりするんだとか言い出したあげく、自分はバカだからお前が止めてくれなくちゃなどとほざく本格派のクズです。

サウルの息子 ネメシュ・ラースロー

 

www.finefilms.co.jp

 

 というわけで、久しぶりのエントリー。今更ながらサウルの息子見に行ってきた。これ書いてる時にはもう公開終わってるかも。

 
 やや食傷気味のホロコーストものですが、こういう撮りかたもできるのねという感想。ピント外れのボヤけた林と草むらの風景に突然鳴り響く警笛と人々のざわめき。画面奥から歩み寄ってくる主人公サウルにピントが合うところからこの幻想の物語は始まります。
 
 ナチス強制収容所でガス室の犠牲者の遺体処理に従事するユダヤ人部隊ゾンダーコマンドの一員であるサウルはある日ガス室で我が子と思しき瀕死の子供に出くわす。サウルの息子はすぐに殺され遺体は解剖に回されるが、サウルは正統なユダヤ教式の埋葬を行おうと遺体を守りラビを探そうとする…。
 
 というのが大雑把な粗筋なのだけど、まずこの映画凡百のホロコーストものと比べてホラー要素かなり強いです。ホラーというとちょっと不謹慎かもしませんが。例えば冒頭のシーンは強制収容所に輸送されてきた大量のユダヤ人にシャワーを浴びさせるという名目で服を脱がせ、ガス室に押し込むまでの過程を描いているのだけど、これが映像表現の巧みさも相まって実にリアリティある恐ろしげなシーンに仕上がっている。状況のよくわからないまま貨車から降ろされサウル達ゾンダーコマンドの誘導に従って歩かされるユダヤ人の群衆のなか、カメラはサウルだけを追いかけていく。このカメラワークが非常に巧みで、映画の観客はまるで自分が死すべき運命のユダヤ人の群衆の中にいるかのような感覚に襲われる。そしてユダヤ人達はたどり着いた更衣室で全ての衣服を脱ぐよう言われ、シャワーを浴びた後、スープが与えられると伝えられる。何かを察して泣き出す女性もいるが、大多数の人々はそのまま服を脱いでシャワー室に入っていく。その間ゾンダーコマンドは衣服を脱ぐのを手伝ってやったり泣き出す者を落ち着かせたりとひたすら彼らの労働に没頭する。最後にガス室の鉄の扉を閉めた後に内側から拳を叩きつける音とその扉を押さえるサウルの虚空を見つめる疲労しきった顔が夢に出そうなくらいホラーです。他にもガス室と焼却炉の稼働が追いつかないくらい大量のユダヤ人が到着した夜のシーンなど、真っ暗な夜の森の中で単に掘った穴の中に裸で叩き落されるユダヤ人の群れと、その穴を火炎放射器で焼き尽くすSSの描写などホラーすぎる場面がちょくちょく出てきます。結構怖いぜ。
 
 この映画を特徴付ける背景のボケとサウルに密着したカメラワークはこの映画のテーマと多分関係してる。収容所の死体処理という労働に従事し続けたサウルは恐らくあらゆる物事への興味を失っていて、だからこそカメラはひたすらサウルを追い続けサウル以外の世界はボヤけていてよく見えない。それは息子の埋葬という生きる意味を見つけた後でも同様であり、脱走計画を企てる周囲の同胞にサウルはほとんど興味を示さないし、計画への協力を装って埋葬を行ってくれるラビを探すことでトラブルを起こし他のゾンダーコマンドを死の危険に追いやったりする。多分それは人間性と呼ばれるもののひとつの現れであるとは思う。最初に僕はこの映画を幻想の物語と書いたけれど、サウルがずっと見ていたのは息子の埋葬と復活という幻想で、周囲や現実との軋轢を生みながらも、それはサウルの生きる意味になっていた。その幻想はもしかしてナチスのような暴力と現実へのアンチテーゼとして描かれているのかもしれないが、その暴力と現実を最終的に覆したのは結局のところソ連とアメリカの暴力であったことは皮肉かもしれない。この映画はナチス強制収容所というあまりに過酷な環境での人間性の発露が描かれているのだけど、息子の埋葬と復活がサウルにとって最後の希望であることは理解しつつも、僕自身は暴力に対して暴力を用いて反逆し、生きることを望みつつも道半ばで倒れたゾンダーコマンドの反乱者達の方が好ましいように思うのだ。